2011年3月31日木曜日

被災日誌

2011/03/11
三春病院医局で被災。
テレビの上に置いてあった碁石が飛んできて、倒れてきた本棚に襲われそうになったが、怪我は無し。
いわきの家族と全く連絡がとれず、津波によるいわきの甚大な被害の映像がTVで流され続ける・・・
三春病院(築2年あまりの新しい建物で良かった)に甚大な被害がないことを確認し、家族の安否を確認するためいわきへ自家用車で一般道を移動。
道路には民家から飛び出してきたサッシや福助の人形などが転がり、ところどころ水道管が破裂し浸水していた。
自宅近くでは瓦が吹き飛んだ家や塀が倒壊した家が多数。
自宅には不安げに家に身を寄せる家族たち・・・
次女は右上腕骨を骨折していた。
(地震の2時間前に竹馬から落ちて受傷・・・予知能力でもあるのか?)
教育関連病院のかしま病院へ移動。
津波に襲われた患者さんたち(多くは低体温)が多数搬送されていた。
手術室の壁に損壊があり、また断水のため当面の間手術・透析は出来ない。
医局の本棚は総崩れで書籍類はメチャメチャだった。
2011/03/12
停電と余震の不安で眠れない夜が明けた。
ついに断水までも起きてしまった。
ひっきりなしに救急要請を受け、粛々と出来ることをこなすしかない。

2011/03/13
外来は怪我の処置などが増えている。
当直業務では震災と直接関係のない急病も多い。
相変わらず余震が激しいが、常に揺れているので誰も気にしなくなってきた。

2011/03/14
救急車24台など初療室は混雑。
震災そのものからは助かったものの、避難所や給水所で倒れた人などが増え、市民の疲労の色が隠せない。
ご自身も避難所生活をされている先生が、避難所で容態が悪くなったかかりつけ患者さんについての丁寧な紹介状を持たせてくださる。
深い敬意をもって対応する。しかし病院の収容スペースは限界。
タクシーも全く走っておらず、救急車で搬送された患者さんが避難所に戻る手段がない。
家もお金も全て津波で流された患者さんを特例で救急車で送ってもらったりした。


夜、水が使える知人宅で震災後初のお風呂をいただいた。有り難さと感動で、肩を震わせて泣きながら風呂に入った。

2011/03/15
福島第一原発の事態が急変。
いわき市内はパニックに!
続々と遠くへ避難していくいわき市民。
非常食と非常用給水タンク3日耐え抜いた病院だが、この日を境に、風評被害を背負ったいわきへのガソリン・食糧・医薬品の流通が寸断され、救急車両すらガソリンの補充が困難になる。
原発20㎞圏内の病院からいわきの避難所に搬送されてきた患者さんが、懸命の皮下注射にも関わらず次々に力尽きていく悲劇を目の当たりにしてしまった。

2011/03/16
放射線被曝の安全性と危険性について家族に説明するも、原発事故の事態の終息の見通しが立たない現状で、家族の正確な理解を得ることは困難と判断。
幼い子供3人を妻に託すことに・・・
家族は東京の親戚宅に移動、宇宙戦艦ヤマト気分で家族とハグし、飼い犬と私がいわきに残った。この時の悔しさと切なさと使命感に燃える涙とともに溢れてきた感情は、1人の医療人として生涯忘れることはないだろう。

2011/03/17
食糧と医薬品の補充なく、病院機能維持困難に!
ガソリンなく、職員の通勤も困難。
入院患者の転院・退院の手配に奔走するも、約半数の患者さんが残る。

うばい合えば足らぬ、分け合えばあまる
うばい合えば憎しみ、分け合えば安らぎ
みつを 
病棟にさりげなく掲げてあった。
深刻な物資供給の寸断状態。
先の見えない不安の中、助け合って危機を乗り切ろうとしているスタッフを誇りに思う。この危機を乗り越えて、貧しくても不便でもいいから、幸せな国「日本」を創りなおそうと心に誓った。

2011/03/18
いわきの風評被害が深刻になり全く物が入ってこない・・・
病院食は12回。
わずかに残った職員は泊まり込みで力を合わせて残った患者さんのケアを続ける。
時間があけば、医師も食事介助でも何でもする。

2011/03/19
いわきの深刻な事態が徐々に報じられ、救いの手の便りが少しずつ届くようになったきた。
しかしまだ現物の到達に至らず、幹線道路ですら救急車両しか走っていない。

2011/03/20
会津若松の知人の空き家に移動した家族とひと時の再会。
道すがら新潟から東に向かうタンクローリーの数々に感謝・・・
元気な子らに癒されながら、病院への支援物資を買い込んでいわきにとんぼ返り。

2011/03/21
自主的な近隣の避難所巡回をして感じたことは、各種災害医療チームの派遣がある避難所と、そうでない避難所があるということ。これらの動きを把握して、効率よくかつ漏れのないようにケアしたいとの思いから、医師の巡回のスケジュールを市役所に問い合わせると、保健所に問い合わせるよう云われ、保健所に問い合わせると市医師会に問い合わせるよう云われ、市医師会に問い合わせると電話が殺到しているのか?なかなか通じないという混乱ぶりで、ようやく通じた市医師会も全体の把握には至っていないことが分かった。早速巡回先の担当割り当てや各団体の巡回スケジュールの把握を市医師会にお願いしたところ、快諾していただき大変ありがたかった。
夜は看護師もいないたった一人のさびしい当直。
検査も処置もままならない。
それでも困って来院される患者さんには知恵を絞って出来る限りのケアを心がけた。

2011/03/22
担当の避難所を割り当てていただき、効率のよい巡回が出来るようになった。
避難所では、感染性胃腸炎などの感染症も散発しているが、それ以上に不眠・不安から心身の不調をきたしている患者さんが増えていて、短期ローテーション制の災害援助医療チームと協働しつつ、避難所近隣の医療機関ならではの継続的ケアを心がけたい。
病院の近くの施設で100歳近い方が老衰で亡くなられ、お看取りさせていただいた。
その時、ご家族は西日本に避難していた・・・
また、遠くは沖縄県を含む福島県外の病院から、かかりつけ患者さんの診療情報提供書を求める問い合わせが殺到し、地震・津波・原発事故という三重苦を抱えるこの震災の悲劇を象徴する出来事だった。


2011/03/28
本日、急患と最低限の処方のみに制限していた一般外来を再開した。
混雑の中「生きてたの~?」と懐かしい患者さんたちとの再会。
これから長い長い家庭医による継続的ケアが始まる・・・


2011/03/31
本日の印象的な診療体験・・・90歳代女性が震災の影響で大好きなショートステイ・デイサービスに通えなくなったことが原因と思われるせん妄で受診。なんとか施設に頼み込んでショートステイさせてもらえることになったら笑顔がもどった。
未だ断水が続く過酷な診療環境の中でも、患者さんの笑顔は私たちにとって何よりの生きがいである。

私たち家庭医の長い闘いは続くだろう・・・
でも
いわきは負けない!
福島は負けない!
東北は負けない!
日本は負けない!
家庭医は負けない!(ていうか諦めない!)
むしろ、この危機を日本に家庭医療を定着させる好機にしたい!

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